禁煙と転職とモテたい願望

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【仮面ライダークウガ】三十路がふと涙をこぼしてしまった仮面ライダークウガの感想

あまり子ども時代は特撮を見ていませんでした。

 

とはいっても、それは個人的には、という範囲。きっと他の同年代の友人と比べると嗜んでいたんでしょう。けれど、他の娯楽と比べると自分の中での重要度は低かったと思います。

 

今回の主題となっている「平成仮面ライダーシリーズ」の放映が始まった時、僕はまだ小学生か中学生のどちらか。当時は、先日25年の幕を閉じた「めちゃイケ!」などのバラエティ番組に熱を挙げていた気がします。「アサヤン」「電波少年」「ガチンコ!」「スマスマ」など、同じ時代を生きていて、それらを知らない人はいないと信じています。

 

僕らにとって最大の娯楽といえばそれらでした。 無論、友人宅のビデオデッキでだとか、夏休みの特別枠で過去の特撮作品を見た記憶はあるし、それらは好きでした。 けれども、決して熱中するほどでもなかったのも確かでした。

 

そんな時に平成仮面ライダー第一作「仮面ライダークウガ」の放送が始まりました。

 

先に書きましたが、以前より友人宅やと長期休みの特番で見ていました。その思い出深いシリーズがリアルタイムに見られると、嬉々とテレビの前でスタンバイしていた記憶があります。

 

けれど、蓋を開けてみれば、正直に言えば肩透かしでした。

 

改造もされない。勇ましく変身しない。必殺技が敵を撃破しない。分かりやすい悪役でなく意味不明な言葉を話す敵キャラ。これまでとガラッと変わりすぎた、ないない尽くしの作品でした。

 

今では慣例となっている2話完結シリーズの走りだったこともあり、当初は物語が完結されぬまま次週に続くのが信じられませんでした。 それでも懲りずに見た次週では敵は撃破したものの、「グローイングフォーム」という白い訳わかんない姿で敵を息も絶え絶えに撃破。おまけに仮面ライダーの代名詞というべきライダーキックを数発ぶち込んでようやく倒すという情けなない姿には、非常にがっかりしました。

 

当時、僕が欲しかったヒーローは颯爽と現れて難なく敵を倒してくれるものだったわけです。 けれども、気づけば一年間追っていた自分がいました。 フォームチェンジや警察との共闘など、これまでとは違うアプローチは少年心にグッときたんです。 けれど、決してそれだけじゃないと思います。

 

少し話は脱線しますが、放映が開始されたのは西暦2000年。当たり前ですが、2000年代の初めの年です。けれども実際には、そんなメモリアルイヤーに対して、その頃の社会情勢は非常に悪かったことを覚えています。

 

極端な物言いになりますが世間に破滅願望や諦めが蔓延していた、そう思います。

 

世俗的ですが前年の1999年のノストラダムスの大予言が良い見本な気がします。もう古い話になるのでご存知ではない人のために説明すると、かつて預言者として名声を得たノストラダムスが残したと言われる予言の一つで、簡単に言うと「世紀末の年(1999年)の8月に恐怖の大王が降臨し地球が滅びますよ」という滑稽無糖な話です。

 

みんな話半分で笑い話で聞いていましたが、誰しもが心どこかでは望んでいたのではないでしょうか。それは大人だけではありません。僕ら子ども同じでした。生まれ落ちてすぐに起こった大不況。身の回りの大人が誰しもが必死に生きようとして、それでも諦めていく姿は、知らず知らずに幼い僕らの心に見えなくて大きな傷跡を残しました。いい意味でも悪い意味でも、個人の力量の儚さを感じるサンプルは身の回りに溢れていました。見通しの効かない暗いだけの世界なら、いっそ全て壊れてしまったほうが、と。

 

連日テレビから流れる倒産のニュースや不幸な知らせを訊くたびに、勉強していい大学に入っていい会社に入らなければ、と直接は言われなくても、そう思わせるほどの圧力がありました。生まれ落ちて、物心つく前に僕らの人生は決まっていたようなものです。

 

そんな時に登場したのが仮面ライダークウガです。いや、五代雄介というヒーローでした。 底抜けに明るく。自由人で、強い意志を持つただの人。

 

思うに、僕がここまで「クウガ」というコンテンツを愛するのは、従来の正義に重きをおいた流れから個々の強さに比重をおいたからなのです。

 

言うならば「憧れ」から「共感」への転機です。初代仮面ライダーの本郷猛と、クウガの五代雄介では同じ「こうなりたい!」という言葉も意味合いが異なります。前者がそのものになりたいと思うのであるならば、後者は近づきたいと思わせるものでした。

 

これまでの偶像ではなく、一つの指針、と呼ぶのものでしょうか。きっと、クウガという作品が好きな人は「クウガ」そのものよりも五代という青年を好いているんだと思います。

 

初代仮面ライダーこと本郷猛は文武両道のスーパーエリートでした。そして溢れ出す正義感に後押しされるように、悪の集団ショッカーと闘うことになります。彼には戦う力があり、動機もあり、気概もありました。

 

けれども五代雄介は偶然闘う力を得たに過ぎません。

 

例えるなら昭和ライダーは英雄の物語でした。そしてクウガは人の物語でした。

 

僕らは知っていました。個人の力の弱さを。異質のものを排除する閉鎖な社会を。

 

作中、平和を守るはずの主人公は、その異質さ故に世間から敵と見なされ「未確認生命体4号」と呼称されます。

 

守るべき人から、敵と見なされて発砲される彼の気持ちはどのようなものだったのでしょうか。

 

こんなシーンを見るたびに、僕は「うしおととら」の最終局面での一場面を思い出します。 倒すべき「白面の者」。そのために生死をかけて西と東の妖かしの楔となり、盤石な体勢を整えて最後の戦いに向かう直前に「白面の者」は主人公たちの記憶を、関係する人からその一切を奪ってしまいます。結果、妖怪軍団は瓦解。守るべき人からは拒絶されてしまいます。

 

たった1手で盤上をひっくり返すとはこのことでしょう。これまで必死に築き上げてきたものが「なかったことになる」。これ以上に無慈悲な行為があるでしょうか。それからの流れを知っていても、見るのが辛いシーンです。

 

もしかすると五代も、敵と闘っているのだから、警察は自分に無条件で加勢してくれると思ったのではないでしょうか。けれども作中ではそうなりません。よくわからないが化物同士が闘っているので、あわよくば弱ったところを叩いて倒す。そんな一般的な行動原理に従って銃撃に晒されます。

 

ここで心が折れてしまっていても仕方ありません。いつの間にか自分は世界から必要とされていない存在になっていて、そのために命を掛ける価値があるのか。けれども彼は折れませんでした。みんなの笑顔を守りたいからと再び戦場に歩みます。

 

そこから五代は闘い続けることで、徐々に仲間を増やしていきますが、それは彼に力があるからではありません。あくまで「五代雄介」という人物が信頼に足る青年だったから。この一言に尽きます。

 

これがクウガという作品の最も重要なポイントであると思います。

 

彼が絶対的な正義という描写は記憶が確かなら一度も登場しません。一条さんも桜子さんも椿さんも、彼が強大な力を持ちながらも彼であり続けたからこそ、手を差し伸ばし、そして隣にい続けてくれたのだと思います。

 

クウガで外せない点である警察での共闘も、一条さんとの信頼をマイナスから積み立てていったからこそです。

 

一条さんは、自分が思うにどちらかと言うと職人のような、自分の仕事に誇りを持った人物だと考えます。正体の分からないクウガ=五代雄介とのファーストコンタクトを試んだのも、自分なら成功させられるという自信からでなく、職務上の危険を他の人でなく自分が負うという責任感からでしょう。

 

そこから五代との親交を深め、ビジネスライクな付き合いから背中を預けられる存在にまで昇華されていく過程はここで語るにはスペースが足りません。

 

クウガは我々の敵ではない。作中で一条さんは上層部へそう提言します。最大限に彼をバックアップしながら、敵の殲滅を続けるべきだと言うのです。 一度判定が決定づけされたものを覆すのは非常に労力が掛かります。現代の裁判でも、その判決が過去の判例から導き出されることが多いことからも分かっていただけると思います。さらに今回は、その判断を行ったのが自分の与する組織であるということもあります。組織そのものに泥を塗る行為を一条さんほどの人物が取る。その苦悩は僕では計り知れません。

 

そしてそれは実を結びます。五代の変身を誇らしげに笑う一条さんの顔は、今でも覚えています。

 

最後の敵が待つ道中で、彼は今ままで決して語ることなかった胸中を吐露します。それは励ましの言葉でなく、後悔の言葉でした。

 

「勝ってこい!」でもなく、「頑張れよ!」でもなく「君には冒険だけして欲しかった」という言葉。それは仮面ライダーという存在でなく、五代雄介という個人に向けられた言葉でした。

 

正直言って、この五代雄介という人物は、主人公にしてはアクの少ない人物です。特徴といえばサムズアップと2000の技。同じ主人公であっても、フォーゼやダブルの主人公たちと比べると吹けば飛ぶようなものです。

 

けれども、だからこそ。僕は五代雄介というに人に惹かれました。 共感できる等身大の人でありながら、自身で持ち得ない強さを持っている彼がとても眩しく見えたのです。

 

人生で必要なのは劇的な何か一つではありません。仮面ライダーであっても、それは一つの個人の側面にしかなりえません。

 

今、僕らが生きている世界は過去の傷が形だけは癒えてきた小康状態にあります。そして世界には明確な正義もなく悪もない。あるのは個の主張だけということを知っています。

 

何が正義で悪かわからないのなら、自分を強く持たなければならないのでしょう。そして僕はそんなに強く生きていたのだろうか。そう、考えてしまいます。

 

力と強さは必ずしも同一ではなく、そして正義とも違う。

 

仮面ライダークウガとは「歩み続ける人の強さ」を最大限に魅せてくれた作品なのだと、そう思います。